小林秀雄先生のエッセイ集の一節を書かせていただきます。
「見ることは喋ることではない。言葉は目の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう目を閉じるのです。それほど、黙って物を見るということは難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙ってみた美しい花の感じを現わしているのです。花の名前なぞを現わしているのではありません。何か妙なものは、何だろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名前を知りたくて見るのです。何だ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見ることではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何にもなりません。
美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動したとき、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何にも言えず美しいというでしょう。この何とも言えないものこそ、絵かきが諸君の目を通じて直接に諸君の心に伝え度いと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に至り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。解るという言葉にも、いろいろな意味がある。人間は、いろいろな解り方をするものだからです。絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何でも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです。」
1960年代の国立大学の入試問題の、出典作品においての最難関作品の作者の一人は、小林秀雄先生でした。
そしてその流れは、脈々と2020年代の自校共通入試問題においての哲学作品に現れています。
ハイデガー、カント、デカルトの西洋哲学の考え方を踏襲しながら、「物事の存在」について、小林秀雄先生は深く洞察しています。
2022年度の夏期講習にいろいろな思いを伝えたいと持っております。