川村二郎先生の「孤高 国語学者大野晋の生涯」の内館牧子先生の解説の一節に、下記のようなことが書かれています。
「たとえば、「故郷」は英語なら、「home」か「native」の次に「town」「land」「place」などがつくくらいだろうか。だが、日本語は「郷里」「郷土」「国」「田舎」「所在」「国元」「生地」「生国」「里」「古里」「故郷」などがあり、さらに「ふるさと」「くに」「クニ」などと平仮名やカタカナで表す人もいる。多くの場合、そこには本人のこだわりや使い分けの美意識があり、「『生国』では古くさいので別の言い方に」と命令されても譲れないのだ。
日本語が単なる表音文字だけの言語であったなら、話せて書ければ「言葉がわかる」と言っていいのではないか。だが、日本語は違う。日本語は単に意思疎通のための記号ではなく、民族の精神文化にまでかかわるからだ。「もっと本気で、日本語に対して下さい」という大野の一言を、特に昨今の日本人はもっと本気で受け止める必要がある。」
日本語で勉強するとはどういうことなのか?そしていわゆる入試問題の難問とはなんだろうか?
私たちは、そのすべての要は、同音異義語、もしくは同義語の勉強が非常に重要だと考えます。
読解力、表現力という抽象的な言葉の本質とは、「同義語における語彙力ではないか」と、当塾では考えております。
日本語における同義語とは、とても奥深いものです。